なんでそんな世界に惹かれているのだろうか、と感じる人の話が好きだ。最近感じたのは珈琲の焙煎屋さん。自宅の近所にある焙煎機がおいてある場所が仕事場で、店舗はない。ある人のご縁で紹介されて、それ以来いつもそこから注文して買っている。

先日、注文したら、メールで、こちらのウルトラマラソンのことに気を遣ってくれて、困難なことほど達成感も大きくなりますよね、と。本当にそうですね〜と自分の心の中。次に「珈琲の焙煎でも苦しい時間に考え抜くことで、矛盾を解決する方法が初めて浮かんでくるので、あきらめない力がついてきたような気がします」と。おお、なんじゃその言葉は!

プロなので、そういうことはあることは頭のどこかで知っていたつもりだったけれど、でも改めてそんな文字を目にすると、そんなに苦難を乗り越えて焙煎をしているとはリアルには想像できていなかった。主体的に仕事をしないと、そういう苦しい時間は持てない。自分がイメージする味を出せるか出せないのか、どうやったら出せるのか、の連続らしい。以前、その人に「焙煎した豆をイメージと違うからと捨てることもあるのですか」と聞くと、「ええ、それはたくさん…」と苦笑していたのを思い出す。隣にいた奥様も苦笑。

そんなことをキッカケに自分の過去を振り返ると、「ノンブルのフォント(=ページ数が書いてある書体)」や「見返し(=表紙の裏にはる紙)」の色がなんか好きになれず、校了の直前に変更したこともあった。印刷所にとっては大迷惑だし、デザイナーにとっても「いまさら感」のある変更。しかも読者どころか、著者にもだれも気づかないところだけど、なんかそんな違和感を感じる気持ちは大事なことだと思った。できたときの愛着に直結する。そこを感じないと過去に使った書体や用紙を「自動的に」使ってしまうことが自分の仕事に対するマンネリ化の一歩になる(考えた末に同じモノを選択するのはOK)。自分自身、自動的に本を作っていた時期は間違いなく存在するし、周りも見渡してもいそうな気がする。ちょっと成功すると特になりがち。

早く、それなりもクオリティーのもの、安価で提供するサービスにもプロの技はあると思うのだけど、どちらが知りたいかと言うと、自分は圧倒的に、「そんな世界」にハマっている人のほうだ。プロだからそんなことを知ってもらいたいわけではないのだろうけれど、でも今回の話は知ってよかったと思っている。

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