自分がロングランとか滝行をやるのは「なりゆき」で、特に激しいことをやろうと思ってのことではありません。むしろそれは避けたいことなのですが、でも人には「なりゆき」と思える瞬間があることに気づきます。

超大手の出版社の編集者をやめて、今は自分の出版社を作っている社長さんとお付き合いさせていただいているのですが、自分からすれば、この時代にそれこそがエクストリームなことなわけです。取次に多額の保証金を払って口座を開き、年間40点ぐらいの本を刊行し、広告を出したり、著者のセミナーをやったり、この世界を知っている人であれば、明らかにとんでもないことだと思うはずです。取次からの支払いサイトは異様に長いのが通例ですし。

その方に「よくそんなことできますね?」とかつて聞いたら「いやいや、これはなりゆきだから」と応えていたことを思い出します。そのときは出版社設立にいたる経緯は聞けなかったのですが、ご本人の中では、自然なことだったのだと思います。きっとかつての同僚からは「アホなことやって…頭おかしくなっちゃったのか」ぐらいに思われていることでしょう。

また、知人は長年ベジタリアンで、オーガニックのお店をやっているのですが、廃業確率の高い飲食店の事情を知ればしるほど、そんなコンセプトのお店をやっていること自体がエクストリームなことなのです。実際に、その人がお願いした経営コンサルタントいわく、「数字が回復するまでは、肉も魚も入れたメニューにしたほうがいい」と提案されたそうな。コンサルタントからみれば真っ当な意見ですが「そういうことじゃないんですよねー」とご本人。経営は大事だし、日々改善する必要はあるけれど、そこは譲れないのは、今のコンセプトが「なりゆき」だったからだと思うのです。身近な人の死とか出会いとか別れとか…そこに至るまでのプロセスを知ると納得です。今とっても親しくお付き合いされている空手家の方も同じようなことを言ってました。傍からみれば、とんでもないことをやっているようでも、自分はそういう感覚はないのです。

よく考えると、そういう領域で仕事をするのがいいのだと思います。「なりゆき」だからこそ24時間考えていられるし、そのことに没頭できる。エクストリームなことは考えた末のことではなく、自分がやらずにはいられない環境に追い込まれたとか、それをやることが自分にとって、とっても自然と思われたときに、たまたま外部から見たら、とんでもないことだった、ということなのかもしれません。こういうことは、たとえば先輩が言うこととか、常識的に正しいことされていることとか多くの人がやることとは真逆なことが多いような気がします。でもだれにとってもこの「なりゆき」ってあるのではないかと思ってもいます。それをつかむ感性があるかどうか、なのかな。ぼくの会社員時代はまったくなかったですが。

自分の滝行もこの間のロングランも完全に「なりゆき」という感覚でした。ただそれをやるにはいろいろ勇気も準備も必要だったのですが。直接的にはビジネスには関係ないこととはいえ、この両者は間接的には多大な影響を及ぼしていています。こういう関係性がなんかおもしろいと最近感じています。

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