昨日で今月の新刊『亭主啓白』の校正が終了、これを俗に校了と言うのだけど、今回の工程で思うことがいろいろある。

かつては計4冊、1000ページ分ぐらいを1ヶ月に校了することもめずらしくなかったけれど、この1週間は初めて本づくりをしたときぐらいに張りつめた時間だった。こういう原点に戻る機会はきわめて大事なことだ。「むかしはこうやって本をつくっていたよな」と思いつつの編集作業だった。

人の気持ちには形がない。それを文字にすると形になるのだけど、とりあえず書いた文章は不整形。何も考えずに感じたこと書いた日記などは、不整形の文章だらけだ。それを整形するのが編集者の役目ではなくて、読んだ人の感覚にうったえかける文章にするのが編集者の役目だと強く思う。それは整形された文章とは少し違う。整形された文章は読みやすいけれど、感覚は刺激されない、とでもいえばいいのか。

著者が望む読者の感覚とは、究極的には「この本を所有していたくなる」「何度も読みたくなる」ということなのだと思う。装丁も大事な要素だ。そのためには編集者自身がそういう気持ちになる本を作ることが大前提だ。だいぶ前に読んだ電子書籍は内容は悪くはなかったのだけど、誤字脱字だらけの文章で、こんな気持ちにはなれなかった。そもそもそういう電子書籍端末で文字を読むことに抵抗あるのだろうけれど、自分はなんといっても、長く所有したい本、何度も読みたい本にしたい。

今回の本は縦書きで数字部分を算用数字で統一していたのだけれど、ゲラを読んでいたらなんとなく漢数字を使うべきだと思って、最後で全部修正した。なぜ?と言われても答えようがない。こういうことは最初からわかっていれば作業は楽だと自分も思うけれど、Word原稿では気づきにくいし、きわめて感覚的、だから正解はない。

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こういう湯呑みをみていると、極めて不整形なのだけれど、どこかで長く持ちつづけていたくなるものだ。作り手が染め付けしている様子が目に浮かぶし、どこから見るかで湯呑みの姿がかわる。なにより自分の観察力が増す。

そもそも自然は不整形だ。山は不整地なのでそこを走ると、身体の細かい筋肉を使っている感覚がとってもある。だから疲労するのだけど、逆をいえば、整地されたアスファルトを歩くのは楽なのだけれど、細かい感覚が失われているとも思う。地面を観察する必要もない。天候や不整地を観察し、気持ちもフォームも整えて走れることが、トレイルランナーの実力ということなのだと思う。

そんなことを考えると自分が関わっている世界は「不整形の整形を作り上げること」なのだと思う。本作りもトレイルも滝行も。そこには正解はなく、きわめて感覚的な世界なのだ。正しい文章の書き方もないし、正しい編集の仕方もない。そもそも正しい出版などありえない。万人に共通する正しい走り方もないし、滝行にいたっては気持ちが整えられるかだけが問われている。すべては不整形の中を整形を目指して、自分の感覚を高めるしかないと思う。

新しい気持ちで本が作れたことでこういうことを考えられることはありがたいと心底思える1週間だった。

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