友人の哲学的なブログを読んでいたら、自分の過去を思い出しました。大学に入ってからバイトばかりしていたのですが、3年ぐらいからなんとなく面白いと思い始め、次第にはまっていきました。
ヘーゲルのゼミを選択
3年になると、ドイツ哲学とフランス哲学とギリシャ哲学のゼミの中から選ぶことになっていたのですが、第二外国語はドイツ語を選択していたというだけの理由で、ドイツ哲学を選択しました。ドイツ哲学の中では、カントかヘーゲルかで選択が迫られたのですが、自分はヘーゲルのゼミを選択しました。一元論か二元論かの違いだけで、ヘーゲルを選んだような気がします。
哲学をどういかすか
ゼミに入りつつ、英米系の分析哲学や言語哲学もかじったのですが、ゼミの先生の影響もあり、倫理学に興味がわき、結局ヘーゲルの『法哲学』で卒論を書きました。ただ、いくら勉強したところで、自分の生活にどういかすか、とか、何の役に立つかといった問いには無縁で、そういうことを考えることがすでに哲学ではない、といった雰囲気もありました。
哲学の可能性と限界
今思うことは、哲学的思考は絶対に必要だけど、それをぶつける場所を探さないと意味がなくなってしまう、ということです。世の中の接点を探し続け、その奥底に哲学的思考がある、ということが理想のような気がしますが、そういう姿勢は学問としての哲学は許さないし、哲学を学ぶ人たちも好まない傾向にあります。大学院で勉強しているとその傾向は強くなります。大学院では、より実践的な(?)ハーバーマスを勉強しましたが、「ハーバーマスは哲学ではない」などという先輩もいて、息苦しさを感じました。それでもやり通せば良かったのですが、それができなかったのは、自分の熱意もそこまでなかったということなのかもしれません。
まとめ
自分は、修士課程を終えて、就職をしましたが、仕事をしていると、批判的な読み方とか、論理的思考が役に立っているのかもと思うことがあります。象牙の塔としての哲学ではなく、やはり現実の世界でいかすべきだと思っています。逆説的ですが、そのときは、哲学の看板を外した方がいかしやすいという気もしています。
==【昨日の活動・所感】==================
・1日中自宅で仕事。書籍とセミナーの新たな企画をまとめる。
・書棚整理。