先日のブックフェアで買った『新エディターシップ』(外山滋比古著/みすず書房刊)の「見つけて育てる」の項目に編集者の特性のことが書いてあるのだが、著者は、編集の仕事を高く評価していて、編集者という人種がいかに徳の高い人間かということを記していて、びっくりした。

すぐれた編集者は大学の教師以上に学を好み、考え方が柔軟で、やさしく、親切である。つまり優秀なのである。さほど多くの編集者を知っているわけではないが、狭い見聞の限りでも例外なく敬愛の念を抱かずにはいられない人たちばかりである。(中略)編集者の機能として貴重なのは、編集者の精神に触れることによって、われわれの心に眠っているある部分が動き出すことである。もちろん、それを編集者はまったくあずかり知らない。触発された当人も自覚しないが、しかし、精神の化学反応の奇蹟はおこるである

自分が編集者であるとするならば、このことばはこそばゆい。というか別の仕事とさえ思う。この著者にそう思わせるとは、この著者とつきあいのあった編集者に敬服するしかない。でも編集とは本来はこういう役割なのだと思う。

この項では、そうでない編集者のことにも言及されている。

知名度の高い執筆者ばかり適当に揃えて1冊の雑誌をつくる編集は、たとえて言えば、インスタント食品をうまく使って食卓を賑わす料理人みたいないものだ。失敗の危険は少ないかもしれないが、創る喜びは少ない。

これもまた意味深な言葉だ。「育てる」という観点が欠けていることが、編集の意味を感じないと、自分は解釈している。「編集者が著者を育てる」という感覚を持っている昨今の編集者は多いかもしれないけれど、「編集者に育てられた」と思っている著者はどれぐらいいるのであろうか。

この著者は「創造的編集」という言葉を使うときには、この「見つけて育てる」ことが含意されていることは間違いない。こういう文章を読んでいると、これこそが今自分がやりたいと思っていることなのだと確信する。「固いつぼみを見つけ出して、これにあたたかい春の風を送り、花に育てる編集の仕事はそれ自体がひとつの芸術なのである」。

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