「活字離れ」の時代と言われています。ただ私たちは毎日大量のメールを書いて発信し、受信して文字を読んでいます。電車に乗ればかなり多くの人がケイタイを見ていて、情報の多くもネットに頼っています。動画や画像が増えてきたとは言え、基本は読むことです。活字離れとは言いがたい環境です。

本当に活字離れの時代なのか?

人と人のコミュニケーションツールが格段増え、手書き文字をあまり見なくなった現在は、活字離れではなく、「紙離れ」というべきかもしれません。ただ活字離れというよりも、文字とそれを伝える器(=本や新聞などのメディア)の「見せ方」に問題があるような気がします。なぜそれを伝えるのか、そこからなにを学べるのか、の視点といってもいいかもしれません。

新聞のインターフェイスから学んだこと

自分は、新聞社に2社在籍したこともあり、もともと新聞が好きでした(大学時代も図書館に行ってまず立ち寄るのは新聞のコーナーでした)。その日の1面のトップで伝えたいことが、レイアウトや見出しやフォントの大きさや写真で明確にわかる。このインターフェイスに毎日触れることで、情報の伝え方を知らず知らずのうちに学んでいたような気がします。それが書籍作りにいきているようにも思います。

紙離れから考える、より本質的なテーマとは

ただ、そのためには、何かいい話しないかという姿勢ではなく、知りたいことが書かれている気持ちにさせることが前提になります。今の新聞にそういう雰囲気があるかどうか、私自身は疑問です。そう考えると、紙離れというのは現象にすぎず、もっと切り込むべきことがあるはずです。こういうことを言うと、「そんなこと、言われないでも、わかっているぜ」という声が聞こえてきそうですが、わかっていることとやっていることが違うこともわかっています。

情報を伝えるためのノウハウが凝縮

ただ、新聞が使っている表現の手法は今でも価値があると思っています。記事によっては面をまたぎながらも、連続性を持たせて読ませたり、多彩なジャンルの文章を面ごとに構成する手法、余白をゆるさず紙面を文字で埋め尽くすための制作工程などなどは歴史と伝統によって培われたものでしょう。それで文字量は、新書約1冊分に相当。正確性ももちろん問われます。伝統的なワザと日々にニュースが一体化しているように感じます。広告も世の中の動きをつかむ、いいツールです。そういうことを学べるメディアとして、新聞社自身が認識していないのではないか、その価値をどう広めるたらいいのかの議論も薄いように感じます。その価値を感じないから、多くの人が、早くて、タダで、便利な、ネット上の記事に時間を費やすのかもしれません。

まとめ

出版も新聞もそうですが、業績不振の理由を「活字離れ」とひとくくりにすると問題が見えてきません。デジタルの時代だからこそ、安易なデジタルとの融合ではなく、デジタルと紙媒体とのより一層明確な線引きが必要だと思います。そのためには、業界からの強いメッセージが必要とも感じます。
==【昨日の活動・所感】==================
・2年前から使っていたiPhone5を解約。これに伴い、10年以上使っていた番号も捨てた。これからは自分の会社用として契約していたPHSとSIMフリーのiPhone6の2台持ちに。キャリアから離れてスッキリ。
・今年はもう少しまじめに新聞を読もうかな。あまり時間はかけないけど。
・青学完全優勝、おめでとう。めちゃくちゃ格好良かった。6区と7区の学生は、自分の授業にいた。

Related Articles: