多忙を極めている経営者や起業家などが本を出版するときに、そのうらには、多くの場合ライターが存在しています。ライターがその人に取材して、それを文章にして、本人は原稿をチェックすればよいのです。著者からすれば少ない時間で手間をかけず、さらに専門家が書いた文章が自分のモノになれば、そんなにいいことはないのかもしれません。出版社からしても、忙しい人のコンテンツを形にするためには、その方法が望ましいと考えているところが多いのが現実です。

取材した内容を編集するとは

プレゼンがとっても上手な人に取材をしたものをテープ起こしをして文字にしてみると、「前に言っていることと矛盾している」と思うところが少なくありません。そこをつじつまがあうように「編集」します。そもそも私たちの会話は一瞬の場で成立するわけです。どんな人の言葉にも矛盾が存在します。簡単に言えば、多少の矛盾を含んだしゃべり言葉に、つながりを持たせた書き言葉にすることが、ライターや編集者の求められていることなのかもしれません(ただ自分は矛盾した言葉を発した裏側が気になるのですが)。

書くことで主張や論理性は磨かれる

原稿が自分で書かないと気がすまないという著者もいます。自分の主張や論理性は自分で書かないと伝えられないと思っているのです。この考えはとってもよくわかります。書くという行為は、ある程度の時間と自分自身との対話によって、生まれるものであって、質問に答えることだけで、伝えられることではないとも思うのです。時間をかけて、じっくりそのテーマと向きあい、一冊の分量を書き上げる著者はやはり異次元だなと思うのです。

質問されることの効用

ただ矛盾するようですが、質問されることの効用もあります。自分では気づかなかった論点や視点を教えてくれることがあるからです。自分のことは意外と自分ではわからないものです。当たり前を思っていることはわざわざ口にはしません。書くべきことという認識すらないことが多いです(原稿を読んで、読者の視点から気づきを伝えるのが編集者の仕事です)。

まとめ

書くことと話すことは、似ているようで別モノです。書けないことでも「それらしいこと」を話すことはできます。そして話したことは、人の手を借りれば、書いたように見せることができます。書籍として完成すれば、読者は、著者が自分で書いたものなのか、取材によってできたものなのか、などまったく気にしないと思うし、わからないと思うのですが、作っているほうからすると、この差は大きいなと思うのです。現段階では、どちらがいいとか悪いとかではなく、それぞれの効用を知って使い分けが必要なんだと思っています。

 

==【昨日の活動・所感】==================

・ランニングのあと、神宮に行き、東京都高校野球準決勝をみる。ひそかに応援している日大三の試合(去年は甲子園に日帰りで見に行った)。結果は残念だったが、相手チームの気迫がすごかった。

・仕事の内容を把握せず外注するとムダが多くなる。やりとりも増える。モチベーションは下がる。その逆になるように仕事しないと。つまり、ムダを少なくし、やりとり減らし、テンションは上げるためにはどうしたらいいのかを考える。

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