Aという本を読んだときにはよくわからなかったけれど、Bという類書を読んだら、Aの内容がよくわかった、なんてことはたくさんある。今わからないことは、Cという本を読めばわかるかもしれないし、もっとAが理解できるかもしれない、あらたな疑問もうまれるかもしれない。そんな好奇心をもって読書するのは楽しいことだ。書き手はどんな状況で自分の本が読まれるかを想像することはできない。

けれど、実際にその本を読んでいる人や、書店でこの本を手にとっている人は、どんな背景知識をもって、どんなときに読まれるのか、何を必要としてこの本を手にとってくれるのか(加えて、どんな本の隣に置かれるのか?)をイメージすることを書き手と編集者が共有することは大事だ。想定読者を決めないと(というか仮決めだけど)、執筆内容はもちろんのこと、どんな表現を使えばいいのか?何ページの本にすればよいのか?どんなレイアウトにすればいいのか?を考えることもできない。どんな内容を、どんな順番で、どんな表現を使ってを考えるときには、常に「僕だったら」という括弧づきのものでしかない。

将来の読者のことを考えるのは大事だけど、最終的には、「何を作りたいのか?」は、書き手も作り手も自分たちの読者感覚を大事にするしかないと思う。自分たちが決めようとしなければ、かつてやったことをただ繰り返すだけだ。じっくり考えることを放棄して、テンプレ的に作られる本が多いと感じるのだけど、書き手や編集者が本を読まなくなったとするのであれば、似たような本が次々とでるのは必然となるし、ITのように便利で効率的な本が好まれることになる(ノウハウ本をKindleで読むと、どこかの情報商材のPDFを読んでいるのか??みたいな気持ちになるときがある)。

先日、本は読む人は減り、書きたい人は増えたのではないか?というブログを書いた。ただ、世の中どんどんいろんな手間が簡略されていって、本を読まなくても本が書けるようにと、「類書を20〜30冊ぐらい読んで継ぎ接ぎすればよい」などとアドバイスする人もいる(←これも以前書いた)。でもどうせだったら「20〜30冊読んで、どの本にも書いていないことを書け」と言ってほしい。時間は果てしなくかかって商売にはならないのだけど、これこそが読書から得られる刺激だ。

文章が書けないという人の執筆をサポートするのはかなりむずかしい状況になるのが通例。読書経験が豊富なのに書けない人はそうはいないのも通例。だから自費出版であっても、原稿をかきあげていないと契約しないというところがあるのは納得だ。ビジネス的に考えればそれが賢明ということだろう。

そういうことを考えると、「これからの出版はマーケットインを目指す」とか誰かが言ったとしても、最終的には、自分の読書体験が映し出されることだと考えると、なんか緊張するのである。※結論が思わぬ方向に行ってしまったww

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