3月は以前から仕込みの時期としていた。すぐにはカタチにならないことをモクモクと作業。脱線も激しかったけれど、予定通りのことはとりかかれたと思う(完成はまだまだだけど)。
その間もいつも頭にあるのは、どうやったら書けるのか?ということだ。自分の課題だし、言語化して他人に伝えることも役割だと思っている。
書くことをいかに書くという作業を効率的にするか?と考えると絶対にうまくいかない。書くという行為の前にはどう考えているのか?という確認が必須だからだ。極論を言えば、書くことは考えることといえるかもしれない。巷に数多ある「書き方」本は書き方だけなのか、それ以外の部分をテーマにしているのかに分かれる。どちらがいいかと言われれば、最初は後者を選ぶべき。内容は重いけれど。書き方はあとでなんとでもなる。
まずは頭の中にある雑多で雑然と存在するいくつものアイデアや考えを自覚し、それが相互にどう関係しているのかを自分に対して明確にすることだと思う。こういうことを考えているときに『7つの習慣』の中に「すべてのものは二度つくられる」の項目があることを思い出したりした。第一の創造は知的創造、第二の創造は物的創造だ。
大げさに言えば、書けない場合は知的創造ができていない。書きながら見えてくるものだし、最近の日本図解協会さんとの仕事でいえば、図解が知的創造にとても役に立つ。頭の中と紙の上を行ったり来たりしながら、図解でどう表現できるか。この繰り返し中で知的創造がなされてくる感覚だ。もやもやしているときは書くのがいい。
個々の事例の相互関係を知るには、体系化とか構造化という概念がついてまわる。これはまたいろいろ理屈が考えられそうだけど、自分はなんでも情報カードに書きまくって、体系とか構造を考えることにしている。アナログなこの方法は修士論文を書いたとき以来だ。書くことは考えることだと大学院時代の先生がよく言っていたし、英国の大学院ではロジックが破綻していると大幅な減点をくらった。
つまり、この両者は不可分なものであり、両者を切り離しては考えられないものなのだ。考えたわりには当たり前すぎる結論だけど、こういうことは忘れてはいけないなあと最近目の当たりにした仕事を見ながら思った。体系化とか構造化についてはまた別途書くことにする。