昨日書いたエントリについて、ご意見をいただいたので補足します。「言葉の源泉、感情の源泉」についてです。

復活のウラで

数年前、著者(女性)のご尊父が亡くなられたことをFacebookで知りました。その人はメルマガを発行していたので、そこでもすぐに「しばらく休刊」のお知らせをしていました。それから数ヶ月後、「通常業務、再開しました」との旨のメルマガが届きました。その間少しやり取りをさせていただいたものの、公に発表したところをみて、その著者の復活を嬉しく思っていました(Facebookにもねぎらいの言葉がたくさん寄せられていました)。

脈絡なさそうに見える言葉に潜んでいること

再開されたメルマガを見て、気づいたことがあります。しばしば、というか頻繁に「父の急逝」という言葉が登場しているのです。しかもその文脈は、読者にとってもなんの脈絡もないのです。たとえば、「4月になりました。春ですね。父の急逝から○ヵ月経ちました。さて、今回のメルマガのテーマは…」といった感じです。

表現のウラを読んで「源泉」を探る

当時は「もう言わなくてもいいでしょ」とか「もうみんな知っていますよ」などの感情がよぎります。しかし、書いた本人の言葉の源泉を今たどってみると、そこには何かが隠されていたのだと思います。それは「肉親を失った悲しみに耐えた時間」かもしれないし、「最後に故人に寄り添った時間」かもしれないし、「これから自分で生きて行くという宣言」だったかもしれないのです。というか、絶対そういう気持ちだったはずです。文字通り受け止めれば、父が亡くなったことを何度も言っているにすぎません。そのウラというか、奥の気持ちを読み取ったほうがよさそうですね、というのが昨日のエントリの主旨でした。

言葉の世界の可能性と限界

そんなことを考えていると、自分は何度か「冷徹な人」と言われたことを思い出します。「理詰めでおもしろくない」とも。本人はまったくそんな自覚はなかったのですが、論理のみですべてが片付くと思っていたのかもしれません。言葉の世界に魅了されて、哲学を学び編集の道に進んできたのですが、その限界に気づかされます(というよりも、そこに気づきながら、言葉を使わないといけないということだと思います)。

まとめ

もちろん論理は大事です。それを学ぶ重要性も否定しまません。ただ言語で表現できないような非論理的なことや非合理性的なことも確実に存在します。論理性は言葉(あるいは記号)によってもたらされます。そこに含まれないことを感じ取ることが最近の課題かなと思っています。

==【昨日の活動・所感】==================

・読む仕事も書く仕事も盛りだくさん。やること多い。もっともっと集中力を高めて仕事したい。

・新しいビジネスが立ち上がる予感。早く軌道に乗せたい。タイミング大事。

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