何か選択を迫られて「どっちでもいい」と言うことってありませんか。自分は結構言っていることに気づいたのですが、この言葉はあまり言わないほうがいいと思ってきました。

ささいなこと「だから」自分で決める

「どっちでもいい」と言うことは大きく言うと、判断を委ねているということです。キツい言い方をすれば判断を放棄しているとも言えます。主体的に生きる人は、常に自分で判断し、決断しなければなりません。今までの意識では、「ささいなことだからどっちでもいい」と思ってきましたが、ささいなことであっても自分で決めたほうがいいのではないかと思っています。というのも、どっちでもいいと言った瞬間、考えることをやめていることに気がついたからです。

選ぶことで主体的に生きる感覚を養う

選ぶには感覚も必要です。「明確な理由は特にないけれど、なんとなくこっちがよさそう」のような感覚です。一瞬で判断するこの感覚を養って、自分で決める習慣をつけるのです。この連続によって、その判断を振り返る習慣もつくのではないかと思ってます。自分で決める、と言えば、この間会った人は、トイレに行く時間も自分で決めている、と言っていました。「どういう意味ですか?」と聞くと、「自然現象だから仕方ないと思っているかもしれないけれど、トイレに行くタイミングって選べますよね。だからなんとなく行くのではなくて、自分が決めている感覚を持つことが大事なのです」と言われました。なんとも新しい発想でした。

自分で決める習慣

「外的環境に左右されるとか、仕方がない」と思うことはどんな状況でもいい結果を生みません。主体的に動くためには、自然現象であっても、自分が決めることが必要なんですね。「仕方がない」とか「どっちでもいい」は、主体的とは逆の思考パターンです。これらの言葉は慎まないといけないし、どんなささいなことでも自分で決める習慣を身につけるべきと思いました。

まとめ

そんなことを意識してみると、バリバリ仕事している人って、「どっちでもいい」という言葉はあまり使わないということに気がつきます。「どうでもいい」という言葉は発しますが、その言葉には、自分が関与すべきでない(関与しない)という意味が含まれています。つまりそう判断したということです。それに対して「どっちでもいい」は自分は関与はするが、判断しないということなのです。「どっちでもいい」と「どうでもいい」は大きく違うのです。

==【昨日の活動・所感】==================

・いつも通っているフィットネスのクラスで、体幹トレーニングを導入してもらう。バランスボールを使った練習。しばらく筋トレより体幹を鍛えることに。

・昼は知人と会食。働くことに対して、常に自分と向き合うことは必要。自分は、会社員時代にまったく向き合ってこなかったけれど、「これでいいのか」「なにが楽しいか」「本当は何をしたいのか」など自問することは絶対に大事。もやもや感を大事にしてほしいとおもった。

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