巷は3連休。自分のSNSは山に行っている人、レースに出ている人の投稿ばかり。行きたいな−とは思うけれど、やっぱり今やることはそれじゃないなあと思っている。明日は打ち合わせがある。

この連休は、執筆に取り掛かっている。連休明けに版元にラフを提出する予定のものだ。以前からやっているモノなので、イメージができているので、作業はしやすい。

対外的に、ライターです、とかライティングやりますとは言わないけれど、目の前に自分が書くことの必要性があれば、やることにしている。とは言え、だれとやるかがとっても重要。誰のライティングか?版元の担当者はだれか?今回自分が持ちかけた話なのでその環境は整っている。

フリーの編集者のときに、版元の編集者とぶつかることが多かった。自分だったらこうするのになー、という思いがありすぎて、相手の要望に柔軟に対応することができなかった。というよりも、自分のやり方しか許容しない、変なプライドがあったんのだと思う。結果として、いいことはなにもない。仕事がおわっても満足度は高くない。単に作業をしていただけ。「文句を言うのだったら自分でやれよ」というツッコミを自分にいれて、実際に自分で本を出すまでにはかなりの時間がかかった。それだけ腹が決まらなかったということだ。

版元にいたときに、読者と名乗る人から編集部によく電話がかかってきた。「あなたの会社から出版されている○○さんの☓☓という本を読んでいるんだけど、あそこは違うと思うんだよね。自分は▲▲と思う。なぜなら…」なパターン。最初は面白かっていたけれど、突然対応するのがめんどくさくなった。「だったらあなたも本を書けばいいじゃないか、それは誰も止めていない。○○さんは多大な労力を払って、本を出して、自分の意見を世に問うた。あんたもそうすべきではないか」と思っていた、実際には言えなかったけれど。

そんなことを思っていたけれど、結局自分も同じようなものだ。フリーの編集者として関わるのであれば、お手伝いに徹するべきだ。それがいやだったら仕事を選ぶしかない、相手を選ぶべきだ。目に見えるモノを批判する人とカタチにしようとする人との間には天と地ほどの差がある。というより、同じものさしでは測れない。

自分が版元となって、名著復刊をし始めたら「復刊は編集力はいらないよね(だから楽だよね)」と言われた。思ってもいなかった反応。たしかにそうかもしれない。でもしかし。。絶版になった本をもう一回世に出すのは、編集力とはまったく別の、何倍、何十倍の勇気がいる。それこそ「だったらあなたもやれば」である。チャンスは誰にでもひらかれている。

8月に出す復刊本は本当に長かった。そこに費やした神経と時間は自分でも予想外。でも乗りかかったらやるしかない。それをすべてわかってくれ、とはまったく思わないけれど、「楽でしょ」と思われるのもちょっと違う。本当は楽そうに見えて、利益がちゃんと伴えばよいのだろうけれど。

目に見えることやモノで、判断するのは仕方がないことかもしれないけれど、当事者が目に見えないところでどんな経験をしているかを一瞬で想像する習慣があっても損はしない。その想像が合っているかどうかなんて誰にもわからない。ただその想像があれば、安易な批判など生まれてこないはずだ。なにより、その習慣が心の平静をもたらす。

やっぱり世の中は、実際にやる人とそれを暇そうに見ている人の二種類が存在している。

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