最近、著者が自著を買っている例をよく聞く。本当に必要な分であれば問題ないのだが、ランキング目当てとか出版社にやんわり要求されて…という場合も少なくない。○○書店で買ってくれとか、○○書店で注文をとかを指定されることもある(書店でお客さんが書籍を注文した場合は客注といって即納品、即入金されるのが原則だ。買ってもらえることがわかっているからだ。出版社にとってはありがたい)。つまり著者は自分の書籍を定価で買っているのだ。その数もハンパではなく、1000を超えることもめずらしくない。

著者が自著を出版社からまとめ買いすればだいたい8掛けで買えるのだが、あえて書店で買うのは、出版社の書店の印象をよくするためと、できれば「○○書店○○カテゴリーでランキング1位」などと広告戦略で使いたいからだ。

仮に1500円の本を1000部買えば、トータル150万円。仮にその本の初版が5000部で印税が10%だとすると、印税収入は75万円。書籍だけだと完全に赤字となる。それでも多くの人が出版に目指すにはそれ以外のメリットを感じるからだ。出版は魅力的な世界なのだ。

ただ不特定多数に届けようとして設計された部数の中で、自分で買うのも限界がある。大きなビジネスをしている人であれば1000を超える自社買いは珍しくないが、個人となるとかなかな負担が大きい。

 

先日聞いた話では、大手出版社から本を出して、その本を読むであろう業界に著者が営業をしまくって、4000部の注文を取ってきたという。版元にとっては泣いて喜ぶ話だ。よい本を作り、版元が宣伝し、著者が営業しまくれば最強だ。その本は発売2ヶ月で10万部を超えている。

ただそこまでして著者がかかわらなくてはいけないのか、という気もする。もちろんこのケースはその本人が自分の意志で動いているわけでその事象だけをとれば何も問題はない。ただ、そういう例があると、版元はほかの著者は?という比較に絶対なる。そういう話に煽られて、ほかの著者が「自分も少しは協力しなければ…」と感じるのであればそれは問題なのだと思う。

本当に売れる本はそこまでしなくても売れるものだ。売れないから著者に協力を…と編集者は思う。それに応じる著者。こうなったら完全に敗戦処理だ。なぜそういう本を作ってしまったのかを考える気分的余裕や時間的余裕はもはやないし、読者からフィードバックを貰えるシステムもない。不特定多数ビジネスはPDCAを回しにくい。そこまでして書く意味はあるのか。

自分は、本を出して、顔が見える人(=つまり特定の人)に読んでもらう努力をすべきと思っているが、それはフィードバックももらえるし、著者からダイレクトに思いを伝えるシステムを作ることができるからだ。書籍で著者のファンクラブを作ればそれ以上の価値はないのではないかと思う。著者主催のオンラインサロンなどはその一例とも言える。どういう意味を求めて出版をするのか。それが問われる時代なのだと思う。

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