以前、ある人にこんなことを言われたことがあります。「あなたは、世の中には事象と解釈があるだけだ、と言っていたけれど、絶対真理あると思っているよね」と。確かに事象と解釈があるからこそ、人それぞれだと思っているし、解釈の仕方でネガティブなこともポジティブなことに変換できると思っています。

違和感のなかで信念は磨かれる

でもそういっている一方で、「これが絶対正しい」と思っていることもあります。出版に関するあり方はまさにそうで、売れる著者にしかオファーしない傾向とか、ライターを立てれば簡単に本が作れると思っている(1部の人の間の)風潮には、かなり強い違和感を持っています。その思いが強くなり、プロデュース業を始めたのですが、そこは、事象と解釈の多様性ではすまされないものを自分自身感じています。むしろそういう多様性や違和感の中で磨かれた信念なのかもしれません。

多様性との折り合いをどう付けるか

冒頭の知人の言葉は、(自分には信念とまでは呼べないかもしれないけれど)ある部分については結構強い考えを持っていて、そこにぶつかる考えとの折り合いの付け方がヘタなのではないか、ということを、気づかせてくれました。多様性はひとつの解釈として認めればいいし、自分の考えもそのひとつとして認めればいいわけです。そして絶対ゆずれないことは突き詰めればよいと。考えれば考えるほどシンプルだし、それ以外の部分についてはある種どうでもいいか、と思えるようになりました。そんなことはわかっていたつもりなのですが、言葉として知っていることと自分でやっていることのズレを指摘してもらったわけです。

まとめ

この言葉を言われたのは9月の初旬。それ以来、ずっと頭に引っかかっていて、ブログに何度も書こうとしていたのですが、その言葉の意味が自分なりにようやく消化できたような気がします。言葉が頭の中に残る感覚は大事だとつい最近も思ったし、聞きやすい言葉だけでなく、耳障り感がある言葉に触れることの重要さを感じます。

==【昨日の活動・所感】=============

・大学授業のあと、吉祥寺に移動し、大阪から出張で来ている人と再会。彼の友達とも知り合いになり、とってもいい刺激をもらう。新たな人との出会いは楽しい。それにしても吉祥寺に行ったのは何年ぶりだろうか。

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