自分の心が種々の思想の偉大さに感動して高ぶってくると、言葉をうまく使おうと野心を起こし、意気も語調もともに高揚することを大いに望み、事柄の高貴さに匹敵するような話がでてくるのです。そうなると自分の掟も、更に一層強く押さえつけられた判断も忘れて、いよいよ高く運ばれていくのです。その言葉は、もう私の口から出たものではありません。

セネカの『人生の短さについて』の1文なのだけれど、モノを書くときに、事実を語ることがいかに難しいことを表している。

よく知っている人が出した本を読むと、「この人、そんなこと言いそうもないのに」と思うことがあるのだけれど、文章になってしまえば、それが独り歩きする。自然体、ありのまま、等身大の文章を書くことは、だれにとっても難しいことなのだと思う。事柄そのものを記述する視点をもつことは難しいし、それを表現をすることも同じだ。

文章を書くときに「事実・解釈・行動」は自分が気をつけている点。客観的な事実を記述して、それをどう解釈して、どう行動しているかが、説得が生まれる。というか、行動を起こしてて結果を出している人は、これらのことが無意識的にそれらが言葉に出ているといったほうが正しいかもしれない。

この本は、紀元1世紀の人が書いたものなのだけれど、今、自分が考えていること、感じていることに一致しすぎて、人が考えることはこうも変わらないのかと、驚くばかり。いわゆるビジネス書を読むことをやめて、古典から生きるヒントを得るようになってから、生き方も働き方も変わった。決して正解は得られないけれど、古典を読んで、モヤモヤしながら、ちょっと日常で試して、感じたことを受け止めて、またちょっと試して…の連続でようやくちっぽけな自信がうまれる。その繰り返しでしかない。簡単にやれるようなことは結果がでないと確信するのだ。

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