最近、ちょっとお手伝いしているコンサルの中で、建築家から、有害物質満載の住宅も、添加物まみれの食品も、いきなりできたわけではなくて、買う人がたくさんいるからメーカー側が研究・開発の末に世に出てきたのだということの詳細を聞く。メーカーは責められるどころか、メーカー側の努力で便利な社会がなりたっているともいえるのだと。そこに関わる人も最初は抵抗感があるものの、買っている人がいるからこそ、やりがいを感じたりする。経営を成り立たせるためには仕方ない(というより、そちら側に方向を変えたほうが儲かるから)と、倫理的に超えてはいけない一線も、踏み込んでしまったりする。慣れと麻痺は同義語だ。自分ではなく人が住むところだから提供できるし、自分ではなく人が食べるモノだから提供できるのかもしれない。

大量消費されるということはそれまであるものよりもたいていは低価格。安いことは大量に消費される重要な要素だ。結果として、高いけれど、いいモノを選ぶ人は少数派になる。高くていいモノといっても、それはそれまでに作られていた当たり前のものであることが多い。それが今は高級品に格上げされているだけのこと。シンプルに生活をみなおせば、必要なモノはもっともっと少なくていいのかもしれないと、目の前の建築家の話をききながら思った。ちなみに、エクステリアのデザインもそうらしい。そういえば、古民家って言葉もへんだ。

薄っぺらな本も売れる見込があるから作り出される。ただマーケットインを徹底すると、時として予期せぬ方向に向かう。想定の読者像に振り回される。幻想かもしれないのに。こんな薄い本作りたくて出版社に入ったのではないと思う編集者は多いと思う。心の中で「前は思うように作れていたのだけど、今はそうはいかない、売れる本を作らないと」とつぶやく。

そんな時代に、作り手として書き手として自分のやりたいこと、自分の書きたいことを書けることは素晴らしいことだ。完全にプロダクトアウトの世界。それが受け入れられて、経営が成り立てばこんなに嬉しいことはない。その幸福感は何者にも代えがたい。右肩上がりの成功はあきらめなくてはいけないかもしれないけれど、自分が目指す世界であることを確信する。

受け入れられるかどうかは、やってみないとわからないからこそ、やってみることに躊躇する。でもその迷いをどこかで振り切らないといつまでたっても買い手の短期的な欲望に巻き込まれるのだなと。「目先のいいことより、本当にいいことを追求して、伝え続ければ受け入れてくれる人はいることを信じている。だからこそ自分がブレないことが大事」「本当にいいことは、歴史を学ばないとわからない」と、その建築家は言っていた。

この仕事は別世界なだけにとっても面白く、自らを振り返るキッカケを作ってくれる。

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